ライル・リッツ研究

(1)ライル・リッツの「二つの顔」


僕がライル・リッツというウクレレプレイヤーのアルバムをきっかけにしてウクレレにのめり込んだことは、「はじめに」で触れました。
ここではライル・リッツのことを、僕の調べられる範囲で書いていこうと思います。間違いなくウクレレの歴史に大きな足跡を残した人でありながら、Web上ではあまり日本語の情報が見あたらないようですので…。

Lyle Ritz
"Lyle's Style"(Hal Leonard, 2009)
のパッケージより

最初のウクレレ・アルバムを作るまで
ライル・リッツ(Lyle Ritz)は1930年1月10日に、オハイオ州のクリーブランドに生まれました。子供の頃にバイオリンやチューバを習い、南カリフォルニア大学に進学してからは楽団でチューバを演奏します。
学生時代にライル・リッツはロスにある the Southern California Music Company という楽器屋でアルバイトをするようになります。彼はそこの「小型商品部門(Small Goods Department)」に配属されますが、そこでの売れ線商品がウクレレでした。当時、アーサー・ゴドフリーが大人気で、ウクレレに対する関心がアメリカでは高まっていたのです。上司からスリーコードを教えてもらったライル・リッツは、ギブソンのテナーウクレレを手に入れ、みるみる間にウクレレに習熟し、店頭で実演販売をするようになります。

朝鮮戦争が始まるとライル・リッツは軍隊に行き、アメリカ陸軍軍楽隊(The United States Army Band)に属し、チューバを吹きました。また、モンタレーのフォート・オード(Fort Ord)基地に駐在しているときに、アコースティック・ベースの演奏法を学びました。
ある休暇の日、ライル・リッツが自分が勤めていた売り場を訪れると、かつての上司から「何か弾いてくれ」と求められウクレレを渡されます。ライル・リッツはこのとき自分でアレンジした「Where or When」というスタンダード曲を弾きました。すると、それを聴いていた一人の紳士がライル・リッツに名刺を渡して「一緒に何かやろう」と言います。じつはその人は、ジャズ・ギタリストのバーニー・ケッセル(Barney Kessel)だったのです。彼は当時既に一流のミュージシャンであったばかりでなく、レコード会社ヴァーブ(Verve)の西海岸代表でもありました。
軍隊を除隊になってから、ライル・リッツはバーニー・ケッセルにデモ音源を送り、それが気に入られてライル・リッツはレコード契約をヴァーブと交わします。

スタジオで録音をするという経験が初めてだったライル・リッツは非常に苦労して「How About Uke?」「50th State Jazz」の2枚のジャズウクレレ・アルバムを完成させます。この2枚の評価は悪くなかったようですが、売れ行きはいま一つだったらしく、ヴァーブレコードは、当初予定されていた3枚目のアルバムの契約を破棄してしまいます。ライル・リッツ自身も、3枚目を作る気にはなれなかったようです。

若き日のライル・リッツ
若き日のライル・リッツ (How About Uke?のジャケットより)


ベーシストして
その後ライル・リッツは軍隊時代に築いた人脈を伝手に、アコースティック・ベースの奏者に転身します。特定のバンドに属するのではなく、主にハリウッドのスタジオでさまざまな録音に参加する、「縁の下の力持ち」的なベーシストです。ビーチ・ボーイズの名盤「ペット・サウンズ」は独創的なベースラインが大きな特徴の一つですが、あのベースを弾いているのもライル・リッツです。しかしレコード(CD)のどこを見ても、彼の名前はクレジットされていません。
60年代〜70年代にハリウッドで活躍していた職人的なスタジオミュージシャンたちは、なぜか"Wrecking Crew" (解体作業者の一団)という風変わりな名前で呼ばれていました。この中にはハル・ブレイン(Hal Blaine:ロネッツ「Be My Baby」のイントロが有名)やラリー・ネクテル(Larry Knechtel:サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」のピアノが有名)など錚々たるメンバーがいました。ライル・リッツもその一人となったのです。
この頃はすっかりベーシストしての活動が中心になってしまったライル・リッツですが、ウクレレの演奏もたまに行っています。スティーブ・マーチン(Steve Martin)が主演した映画「The Jerk」(1979)で、スティーブ扮する主役のNavinがウクレレを弾きながら "Tonight You Belong to Me" という歌を歌うシーンがあるのですが、そのウクレレを吹き替えで演奏していたのがライル・リッツです。また、上記「ペット・サウンズ」でも何曲かウクレレを演奏しています。

それにしても、ウクレレといいベースといい、ライル・リッツは比較的短い期間でプロとして通用する腕を身に付けているわけで、やはりたぐいまれな才能があったのでしょう(もっとも、最初に学んだバイオリンはモノにならなかったようですが…)。
四半世紀以上にわたるスタジオ・ベーシストとしての活動は彼にとって非常に充実した楽しいもので、病気でも仕事を休むことはなかったといいます。

ハワイへ、そして再びウクレレへ
1980年代半ばに、ライル・リッツの人生に転機が訪れます。
ハワイでウクレレ学校を経営し、自らもウクレレ教師として活動しているロイ・サクマが、ホノルルで行われるウクレレ・フェスティバルに参加するよう、ライル・リッツを電話で誘ってきたのです。ロイ・サクマはウクレレの普及のために奮闘していました。プロモーター、プロデューサーでもある彼は、ウクレレフェスティバルの発案者にしてプロジェクトリーダーでした。そしてウクレレシーンをさらに発展させるために、ライル・リッツの力が必要だと考えたのです。
じつは、ライル・リッツがヴァーブで作り、メインランドではあまり売れなかった2枚のアルバムは、ハワイの音楽シーンにおいてはたいへんな好評を博し、「伝説」の作品となっていました。それまでハワイに行ったことのなかったライル・リッツは、自分のアルバムがもたらしていた影響について知らなかったのです。

ウクレレ・フェスティバル
2012年のウクレレフェスティバル(筆者撮影)

1985年を皮切りに3年連続でウクレレ・フェスティバルに出演したライル・リッツは、大きな決断をします。ベーシストとしての仕事をやめ、ロサンゼルスの住居を引き払い、ホノルルに引っ越すことにしたのです。エレキ・ベースあるいはシンセ・ベースが主体となったアメリカのポピュラー・ミュージック界において、アコースティック・ベースの出番が少なくなってきていたことは想像に難くありません。加えてライル・リッツには幼い娘さんもいて、教育のためによりよい環境に移りたいと考えるようになったのです(この娘さんは今では大きくなって、彼の教則ビデオ「Lyle's Style」では、父親と息のあったウクレレアンサンブルを披露しています)。
ライル・リッツの第2の音楽キャリアは、こうやってスタートすることになりました。

ハワイに移ってきたライル・リッツに、ロイ・サクマはウクレレ・ジャズのCDを作るよう奨めます。ライル・リッツは現地のミュージシャンを使い、ジャズ、そしてポップスの要素を取り入れ、ウクレレ・アルバム「Time」を完成させました。その後、オータサンとの共演盤「Ukulele Duo」や、同じくオータサンと競演・共演したライブ盤「Night Of Ukelele Jazz」を出します。また、メインランドのジム・ビロフの求めに応じ、彼が経営するFlea Market Musicよりウクレレ教則本を刊行したりしました。

最近のライル・リッツ
ライル・リッツは2000年頃にハワイを離れ、オレゴン州のポートランドに居宅を構えます。そこでGarage Band(MACの多重録音用ソフト)を使って「No Frills」というアルバムを一人で作りあげました。最近ではポートランドに縁の深いレベッカ・キルゴアという女性ジャズ・ボーカリストとの共演盤を2枚作っています。
2007年にポートランドのウクレレ・フェスティバルで、ライル・リッツはウクレレの殿堂入りを果たします。さらにこの年には、「Wrecking Crew」の一員としてミュージシャンの殿堂入りも果たすことになりました。
この二つの殿堂入りについて、前述のジム・ビロフはライルリッツに、「あなたのキャリアの二つの路線が一本に合わさったようだ」と述べています。

*この記事は主に次の資料に基づいて書きました。
Wikipedia - Lyle Ritz
Lyle Ritz:2007 Hall of Fame Inductee
Lyle Ritz - Music Biography : AllMusic
Lyle Ritz「Lyle's Style」(DVD; Hal Leonard)
誤り等気づかれた点がございましたら、ご指摘いただければ幸いです。(文中敬称略)


このページの更新日:2014年10月30日
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